【MeeGo】【N9】Nokia MeeGoの濃ゆーい話 その2

その1に続きその2はMeeGoの前身となるMobile LunuxのプロジェクトMaemoが中心となります。インサイダーによる翻弄されるMaemoの状況が炙り出されます。
それではMaemo飛翔編(笑)をどうぞ。

MeeGo以前のNokia:OSSOとMaemo
2005年以来、Nokiaの非常に限られたリソースの非常に小さなグループによってLinuxベースのMaemoオペレーティングシステムとそれを搭載したデバイスが開発されてきた。そのチームはOSSO(Open Source Software Operations)として知られており、そこで立ち上げ時から働いているメンバーによると、世界を変える製品を生み出すことが最終目標だったという。OSSOチームは2007年にMaemoチームと名前を変え、2010年のNokiaとIntelの提携の結果、MeeGoチームと名前を変えた。
全ての方針はチームを率いたAri Jaaksiによって始められた、2010年10月に辞職し、webOSオペレーティングシステムの開発のためHPに移籍した。


Nokia770
最初の二つのデバイスは2005年にリリースされた770とそれに続く、2007年のN800だった。両方共、非常に少ないリソースで開発された。なぜなら、たった数十人の小さなチームだったからである。ソフトウェア開発は俊敏で、迅速だった。


Nokia N800
不必要な官僚主義が開発を遅らせ、従業員は製品開発を遊び場と説明した。製品は上部組織や特定の部門の専門家のサポートを受けること無く、ほとんど外注のみで作られた。
誰一人として最終製品の品質問題のプロセスや結果に対して介入するものはいなかった。小さいリソースや外注の使用を考察してみれば、常に部品選びにおいては最低価格が最も優先順位が高く、2番目にはスペースの必要性、貧弱なハードウェアパフォーマンスを出来る限りのソフトウェア最適化で取り繕うとする。
ソフトウェア開発におけるコストの削減はとりわけやる気を削いでいく、次の2週間の最適化パフォーマンスのストレスとなる安価な資材調達による節約という事実が考えられる。

インタビューを行ったNokiaのほとんどの人が、外注を使い過ぎだと言った。支出と時間の浪費による会社の傷から特定の知識が生まれ、OSSOチームのリソースは制限されていた。

多くの問題があり、外注業務の品質を維持することが難しくなり、契約を適切に監督する事が出来なくなった。外注会社は適正のある人間を失わせ始めるエキスパートになって契約をごまかした。インドで誤ったコードが書かれた例や中国と日本とのコミュニケーションの問題は彼らのお粗末な英語スキルの所為である。これらの全ての結果はフィンランドのプロジェクトマネージャに余計な仕事や遅れをもたらす事となった。彼らは誤りを修正し、粗末な品質を改善する物差しを持つ必要があった。

同じ頃、官僚主義を持って拡大しているチームがあった。それは開発をスローダウンさせ、ソフトウェア開発の俊敏性を失わせた。特にMeeGoチームの開発者からの改善提案は受け入れられるのが非常に困難であり、このために多くの改善提案が放置された。一つの例を挙げれば、Swipeユーザ・インターフェイスのおける上下のSwipジェスチャーは、現状のアプリケーションを終了させる。この提案はすぐに却下された。しかし、開発者は諦めなかった。別のテストをする他の機能のものと共用することにした。結果としてBugzilla-Nokia内部のバグ報告システムには、管理とこの機能を超えて開発者にお互いに直面する問題に対して数百にも及ぶ長い会話スレッドが誕生した。最終的にはこの機能はPR1.1ソフトウェアアップデートに含まれる事となり、標準の機能となった。

2つのプラットフォームによるNokiaの内部抗争の最初の兆候はN810デバイスで見られた。それは2007年の後半に電話機能を持たずに市場に投入された。Nokiaの最初のMaemo電話であった、しかしながら電話機能を外されると言う決断は完全に政治的なものだと言われている。


Nokia N810
我々がインタビューしたMaemoチームメンバーによると、SymbianチームのディレクターはN810とSymbianベースのCommunicatorが対決可能になる事を恐れた。既に2005年と2006年に何人かの人には明らかにSymbianは古く、今日的でないプラットフォームであることが明白になっていた。加えて、有効なタッチスクリーン・ユーザインターフェイスにSymbianは挑戦中だった。これがSymbianとMaemoチームの内部抗争の始まりだった。


N900
N810デバイスの発表の後、Maemoチームは大衆を狙ったスマートフォンのコンセプトを考え始めた。元々の計画はN810に電話機能を加えただけのものだった。しかし、最終的にはコードネーム’Rover’と呼ばれる全く新しいデバイスに変更された、もしくは我々がよく知っているN900にである。N900の製造は、例えば大半の時間を外注業者が使うという、ほとんどこれまでのMaemoと同じ方法がとられた。説明されたコンセプトは非常に難解で、どの位の時間で可能になるかと言う一般的な知識無しで、一部分を構築していた。驚くべき事に、時間とお金の量が増加可能になった事により、開発チームはこれまで以上に開発に力を入れる事を可能とした。

N900はMaemo5 OSが使われ、コードネームはFremantleだった。そのHildon UIはGTK+で書かれていた。N900と並行してMaemo6、コードネームHarmattanの開発が始まっていた。そのUIは完全にQtで書かれる予定だった。

Nokiaは並行してSymbianとMaemoのタッチスクリーンが可能なスマートフォンを開発し続けていた。Symbianはまだ良く売れていたことから、誰もがどのくらいの速さでiOSとAndroidベースの携帯電話がスマートフォン市場に革命を起こすかを予想出来なかった。Nokia内部ではMaemoチームのメンバーはSymbianチームのマネージャは彼ら(Maemoチーム)の仕事を恐れていると思っていた。また彼らは出来うる手段によってMaemoチームの開発を遅らせるため会社の自分の立場を利用した。

飛翔編のはずでしたが(笑)、なんとも凄い展開になってしまいました。
この章にも登場するMaemoチームAri Jaaksi氏の’NokiaにとってSymbianは宗教’が思い起こされます。燃えさかるSymbianのブログでも紹介した通りいまさらですが、Nokiaは速い時点でMaemoをメインストリームに持ち上げることをしていたらまた違った展開があったかもしれません。携帯電話の会社としてSymbianに注力するのはある時期に於いて正しかったと言えますが、携帯電話会社としての立場を守るのではなく時流に応じた価値やユーザ体験を提供するのが重要だったのだと思います。

それでは、次回はMeeGo苦闘編(笑)です。公開は私のやる気次第(^^; 私のやる気に期待を(笑)

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